昭和45年8月30日朝の御理解 ★ 御理解、第76節人間が人を助ける事ができるのは、ありがたい事ではないか。牛馬は、わが子が水に落ちていても、助けることは出きぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ・・・。人間は人を助ける事が出きる、これは人間である以上やはりそこに、人が難儀をしておる。例えば水におぼれておると、それを目撃いたしましたらそれを助ける手段。 助ける方法を講じたり、又は自分が泳ぎができるなら飛び込んでいって助けてやる。と言うような事が出きる。そう言う人間は、人を助ける事ができるという事。なら人間である以上まぁ大体そうだろうね。それはどうにも助ける手段も助ける方法がない。それは助けよったら自分までも助からん事になると言ったような事ならいざ知らずですけれども。
助けられるものならです。そこに助ける方法をとらせてもらう。と言うような事は、
これは、いよいよオ人間である以上、だれでもそうする事だとこう言う訳ですね。
んー。人間が見ると助けてやる、ですからそこまでは言うならば、信心がなかっても(なくても)人間である以上、そのような働きは出来ると言うことです。またそう言う働きをすると言う事。ね。それは( )までは出来ない、ね。それは自分の子供が溺れておっても、それをなす事は出来ない。ですからここまでは信心がなかってもの話しですよね。
それでそこから、人間は病気災難の時に神に助けてもらうのであるから。と言う所からが。信心。ね。人間は病気災難の時に神に助けてもらうのであるから。人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。ですから全般の助けると言う事を大変内容が違ってくる。ね。いあわいる、信心で助けると言う事です。ね。信心を頂くようになるほど、難儀な事を神様にお願いをして、神様から助けて頂くのであるから、また私どもも、信心によって人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心をしていかなければならないかない。ね。 ですからお互いがいよいよ信心によって、力を得ていかなければならんと言う事が。
分かります。ね。信心によって力を頂いていく。いわいる、神様を信じてやまんか、ね。 信じて、信じる力と言うか。信心によって神を信ずる力を頂いて、その力を持って人を助けていく、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。ここん所が問題になるわけですね。
★・・・・今日私はご神前でね「鬼に金棒」と言う事を頂いた。「鬼に金棒」と言うことわざがありますよね。例えば、強い上に持ってはと。言ったようなお話しですね。 あの人は、実力はあるけれども金はないと。と言う時には使います。実力があるその上権力と言うかね、いわいるお金の力も持っておられる。えぇそう言う時に使います。「鬼に金棒」だと。ね。信心によって私どもがあの、どうしても一つその「鬼に金棒」と言うおかげを頂かなければならん。ね。鬼と言うのは強いと言う事でしょう? いわいる神を信ずる力、信念が強いと言う事でしょう。ね。同時にその信念が強いと言う事だけではなくて、事実ねおかげを頂いておると言う事だと思います。ね。 いろんな意味においても、やはりおかげを受けておる。 お金ならお金。物なら物。知恵なら知恵。やはり神様を信ずる力と同時にそういうんなら。目に見えない信心の力。目に見える形の上のおかげ。そう言うおかげを頂いて始めて、 「あの人は鬼に金棒」とまぁ言えるんじゃないでしょうか。ね。実はその「鬼に金棒」と言った様なです。おかげを頂かなければ私は本当は、人を助けると言う事は出来んのだとこう思います。ね。えーお金をうーんまぁ信心によって、沢山儲かったと。えーここでもそう言う例は沢山ように、信心も大してでけんのに、本当に順調におかげを受けたと言う人があります。ね。けれどもその悲しい事には、信心の力を一っつも養っとりませんから いざ何かと言う時には、もうろうろしてます。ね。どういった手の問題が起こりましてもです。それを御神意と頂ききらん。御神意と信じきらん。神様のそれも働きであると言う事を信じきらない。ね。お金やら物やらには、不自由しないけれども、何か一つの問題が起きてくると、その問題に言わば、うろうろさせられておる。その問題に苦しめられておる。ね。ですからそう言うならおかげを頂いた人も、おる人も沢山ありましょう。 金光様の御信心を頂いておる人の中にも。だからそれではね、あんたの人の難儀を見て助けると言う事は出来ない。ね。人が難儀と言う、その難儀と言うものがです。 そらは難儀ではないのだと。神様の、おー言うならお働きであると言う事を信じて話してやる。信じて、えーおらなければ人を助けると言う事はでけません。ね。だからそう言ういわいる、真の力と形の上での力と言うものを、かねそなえて行くと言うおかげを頂く。 そう言うおかげを受けよと言う事だと。ね。人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。と言う事になると、人の難儀を助ける事が楽しい事になる。 例えばこれがなら(風なら風だけ?)信用がない。神様を信ずる力はない。なら金は沢山持っておるから、金で助けると言うでもありますね。金がない人に金を貸してやると言う事もいいでしょう。金の力を持って、えーまぁ世の中が明るくなるような施設を作ったり。いろいろする事が出来ましょう。 けれどもね、それでは本当の人が助かると言う事にはならんのです。 又は助ける事によって自分が助かると言う事にもならんのです。ね。 どこまでも神様を信じる力と同時に、物であり金であり思って、助ける事になった時にその助けると言う事は、完璧なものになってくるわけです。 みなさんはそこん所どう思われますか?ね。ここに今、金のお繰り合わせさい頂きゃいいと、言うだけで金を頂かしてもらうならば金を頂かせてもらえれる一つ、力を信心を分からせて頂こうと、ね。 そう信心にとものうた所の形のおかげを頂くと言うような生き方じゃないと。 それは足ろうた事になってこない。バランスが崩れてくるわけです・・・ね。 みなさんお金はおかげ頂きよるが、神様を信じる力は(どこにあるだろうか?) 神様を信ずる力は段々出来てきたけれども、まだまだ金やら物には手がとどかんと言う人もありましょう。ね。そこでですね、どういう信心をさせて頂いたら金であり。力であり言うなら「鬼に金棒」と言うようなおかげを受けられるかと、言う事になります。 ・・・・えー昨日。んーここで修行いたしております「末永さんが」お届けに出て参りまして、えー今朝がたから私はこう言うようなお夢を頂いたと言うて、お届けをするのです。親先生が亡くなっておられるというお知らせであった。それでもうご信者さん達がもう それこそ手お座をして騒いでおるところであった。されで自分もその親先生が死なれたと言う事を聞いて。もう悲しゅうなって声を上げてわんわん泣いたっち、ところがね そのちょっと泣き止んで前を見る所、その自分の目の前にちゃんと親先生が居られたこう言うんです。でまたみんなが「親先生は死んじゃござらんぞ。親先生は生きてござるぞ」と言うて、まぁみんなが喜んだと。そしたら親先生がね、あの私があのあー糖尿病ですから時々あのー高橋さんがあのーあれなんと言うですかね、尿の検査をなさいます。小さい紙がある試験紙です。そう言うその試験紙のような物をですねその私の口に私のその唾液でね、それを検査するんだと。言うて親先生が言うておられ、またみんながそれを、見ておる所であったと。ね。どういう事であろうか。あーここで私がいつも申しますように、 今、私が言うておる事。今私がここでお取次ぎさせて頂いておる事。 言うなら私が居る間に、言うならここに一つの生きた手本とでも申しましょうか。 まぁ今日の御理解を( )よいたしますとですたい、ね。まぁ言うならば、「鬼に金棒」的なおかげを頂いておる者とまずかていして来たから、ね。私がんなら神様を信ずる力を誰よりも強い。みなさんよりも強い。ね。けして出来上がっとると言うのじゃないですよ。けど皆さんよりも強い。神を信ずる力が強い。それから私は、物やら金やらにも全然不自由しないだけに、言うなら沢山頂いておる。これも皆さんよりも大変頂いておると。 言うなやば、「鬼に金棒」のおかげを私は受けておるのだと。 そういう、こういう信心すりゃこのようなおかげが受けられる。 こういう信心をすりゃ「鬼に金棒」のおかげを受けられるんだぞと。 私が皆さんに一生懸命お取次ぎさせて頂いておる。 ですからそのもう「亡くなった先代はこげん言ござった」じゃなくてですね。 実際に私が居る間に、本当になるほど先生が言われるようにです。先生は「鬼に金棒」のおかげを受けておられると言う、それを実際に、見ておる、聞いておる、そして自分も頂いておくと言う事が大事だと。とてもとても今、合楽で使えさせて頂いておる事はです。ね。もうこれは何時の時代になってでも、私はそうだと信じるんですけども、それは大変な事を頂いておるんですよ。・・・ね。もう昨日は参ったけん今日は参らんでよか、んな事参るだけならそれでよかろうばってん、本当に教えを頂くと言う事はです。ね。 じかにこうやって日々頂かなければ、頂けんのです。それも貯めといてからテープを聞こうと言うてもいいけども、テープじゃ出来ない事がある。実際にそこに目の前にですね。私を置いて、私の口からこう、皆さんに伝えておる。それに接しなければいけない。また その場でお取次ぎを頂いて帰らなければ出来ない事があるのです。これはもう微妙と言うたら微妙。ね。もう大変なデリケートな、内容の事でございますけれどもです。ね。 私から聞いとく、じかに頂いとかなければ出来ない事がある。ね。そこでです。ね。 親先生が亡くなられたと言うて、騒いだり、悲しんだりするほどしの言わば親先生を感じておられる皆さんならばです。どぉぅでも一つここん所おけげを頂いて、 「あらそうの、合楽の人は死なっしゃったの」と言うていくのなら別です。 けれども合楽の親先生が死んだと聞いたら、それこそ、涙の一つも、こぼさせて頂けるほどしに私を感じておられるほどしの人ならばです。おしい、頂いておかなければ・・・ね。私はいつもこうやって皆さんが(熱に?)解かせて頂くだけではなくてです。 (ここで修行する方達に申します。?)「できるだけ私に接近せよと」ね。 それをただもうわずらわしい、私のそばに来りゃなんか(行事?)を言いつけられたり、 また小言を言われたらなんとはなしに煙たい。もうそうもあろうけれどもです。 一つ出切るだけ接近してです。これは、んならその時じゃなからなければ頂けん。 風呂に入っとる時なら、風呂に入っとる時じゃなからなければ頂けない教えがあろう。ね。私の側に居る時じゃなからなければ、聞けない事が沢山ある。または、尋ねなければ分からない事も沢山あろうが。それを今のうちに私に、尋ねておきなさい。例えば御理解を頂いてです。ただ頂きっぱなしにせずにです。分からない所があったら尋ねなさい。今なら答えは出切るけれどもです。もし私が亡くなって居らなくなったらです。 分からん所は、分からんままでしまわなければならんじゃろうがと。今の私に、私が居る間に聞いときなさいと。ね。私が分からん所は、御神意を神様それこそ直接おうかがいをさせてもろうて、お答えをさせてもろうて、皆さんのものに一つ「起きなさい」とこうまぁ言うわけなんです。これは私はここで修行する方達にそれを申します。なるほどそういう風に生き方になりますと本当にこれはあなただけに教える事よと言うような事があるのです。これは自分の子供だからと言うて教えられるもんじゃありません。自分、子供でも成す事。やはりそれだけ、接近してき、それだけ求めて来る者にしか与えられんのでございますからね。もう朝の御理解、夜の御祈念の時のお話しだけでね。事足りると言う事ではけしてありません。ですから私が死んだら涙の一つも(笑い)こぼすほどしの人ならばです。ね。今私が言うておる事を、この口から私が吐いておる事、これをね本当に嘘か真かね、ためしておけと言う事だ。私の唾液をね検査すると言う事はね、親先生があんな偉そうな事を言うが、「ほんなっこつあれじゃろうか」と例えばね、疑ごうてかかってもいいと。 私が言う事を本気で一つためしてみるきになれと。っとためした時にです。それが私は、本当であった場合それが力になるんだと私は思います。ね。私が信じておる力をそのまま皆さんが頂いて下さる事が出切る。 「話しには聞いておったばってん」じゃいかんでしょうが・・・・。ですからどうでもね。これは私がここで皆さんに伝えておるその事を皆さんがね、ためして見なきゃいけない。ね。「あー先生が言う通り今日はしたばってんかいっちょんおかげ頂かじゃった」と、 と一遍、二編の事では無しにです。その私はねためしてみる、いわいるこちらのまぁだ、 あぁ頂き方とか行事方というものが、まぁだどこにか間違いがあったりあろうという風に頂いてです。皆さんが本気で私の言うておる事をためしてみて、なるほど「先生が言われる通りのおかげを受けられるんだ」と信じられた時に、私が信じておる力を皆さんもまた力を頂いた事になるのですよ。そうでしょう。ね。例えば皆さんが、一遍に全員したばってんおかげを頂かじゃったと言うのはね。これはまぁだ、それを行事方が頂き方が間違っておったと言わなければならない事。なら私自身が受けておるでしょうが。ね。(笑い) 私自身がおかげを受けておるでしょうが。だからそう言う手本が目の前にある時です。ね。教祖様のご時代に、やはり金光大神のごしんかくを受けられた。 (斎藤又三郎?)と言う先生がおられました。ね。大変な信念の強いお方であった。 らしいですね。御伝記なんかをあれさしてもらうと、ほんなこつあるじゃろうかと言うような事を言わばその御祈念力によって現しておられす。ね。ある時信者に前にこう山がある。「わしがあの山を睨んでね、後ろえさがれと言うとあの山が後ろえさがるんじゃ」とおっしゃったと。山が下がれといったら山が下がったっち。後ろの方に、ね。 それを例えば、私どもが今聞きますとです。本当に荒唐無稽と言うですかね。 こっけいなごたる感じがする。「そげな馬鹿な話しがあるものか」と。 ね。またある先生はですね、あれは(しな沖の?)なんか船あのーなにかね、海の中に飛び降りようとした事があった。そん時その先生が御祈念さしちゃったらね、海の水がこんなに段がついてここだけが、落ち込んだところが浅くなったっち言うような力をね示された先生があったち。ならどうでもそれから、また話ですから、いわば「そげなお伽話のようなものがあもんか」と思うし、またそげなおかげを頂けるとも思わんでしょうが皆さん。 それを実際に見ていないからですよ。ね。私どもはとてもそういうような、山を後ろに押し下げたり。(笑い)海の水をこんな段がつけるような、そういう力はないにいたしましてもです。ね。ここで例えば私がでうす。必要な物は必要に応じて頂けれる。っと例えば言ったようなこれはみんなが言うならば、求めて求めて止まない物でしょうもん。ね。 ここで私が必要だと、ね。私がなら漁港なら漁港のお茶を頂いておる。「あーこのお茶はいいお茶だから何日か( ? )はないかと、なぁーにもありませんよ今日は」と いよる時にはもう誰かそこに羊羹のひときれなんて持って来とった。ぜったいな事ですこれは。ね。「あー私は今日も喉が渇く、ね。サイダーが飲みたいなぁと」これは福岡の私があそこ支部が出切る時に行っとった時でした。前の晩にご信者さん方達と一緒に私が行きましたのに大変にあのにぎあいましてね、お酒を沢山頂いた。 それでもやっぱり朝の御祈念を秋永先生とこのお広前でさせて頂いて御理解を解かせて頂いた。もう御理解を頂き終わったところもう夕べ酒を頂とりますもんですから、 もうなんかサイダーかなんかが飲みたい。で私お話しの中に申しました。「あーお話しを頂き終わってからね、サイダーが飲みたいな」って私が言いましたが「サイダーはありませんよ」と言われた。ね。そしたらはしごんだんの上を(はしごの階段の上を)サイダーを下げて上がってくる人がおる。日本ビルに勤めておった。あー、横川さんって言う。 ( ? )「夕べは大変おかげ頂きました。夕べ先生が沢山召し上がったから喉が渇きなさんなんせんじゃろうかと思うて今日はビールをあぁサイダーを持ってきました。」と言うて下げて上がって来よった。「ほら、ねっ、ほら私が今サイダーが飲みたいち言うたらもうそこに持ってきよろうが」とまぁそう言う(うれい?)はいつもの事です。そげん素晴らしいタイミングで、もういつの場合でもです。私の場合は、それがまぁ言うなら、(もう最近じゃ?)たくわえられてあると言う感じです。必要な物が。必要に応じて。ね。 だからそう言うおかげを皆さんが本当に頂きたいでしょうが。ね。ですからそう言うおかげを、だから欲を言う事もいらなければ、どうする事もいらん。ね。お金でも何でもそれこそ、先日から頂くようにね。いわいる「馬鹿と阿呆で道を開け」とおっしゃる。 本当に馬鹿と阿呆で道を開かして頂いた。馬鹿と阿呆と言う事は。ここまでは馬鹿になれるけれども、これから先は馬鹿になれんと言ったような馬鹿じゃない。馬鹿って言ったらもう底が抜けとる。ですから、おかげも底抜けのおかげ。神様は限りなく無尽蔵に、しかも限りなくその(?)をださしてもらう。(「はぁーすこしばっかり、入ったつをもう、てんでもう紙包んでふろしき包んで、こうやって足で踏みつけた人がおる」もう出したき唾でん出すごんなかち言うごたる。?)そう言うね、汚ーい事をせんでもです。もう必要な物は必要に応じて、ね。だからといってけして、お粗末ご無礼の事には使うな。必要な物であると思うたら、それをなんぼでも出さして頂けれるだけのおかげを頂けれるためには、なんぼでも入ってくるおかげを受けなきゃならん。ね。ここでは、私の事をまぁ大黒様という風に言うてくださる。表現してくださる。ね。いわいる私が頂いておる打ちでの(小ツチ?)と言うものは、これからも金だけじゃない物だけではない。いろいろなものがこれから打ち出せば。そのばで出てくるようなおかげは私自身が頂いておる。「んなら先生私も百万ばっかり出して下さい。」と言う訳にゃいかんのです。なぜって百万で助かりゃいいばってん助からん。百万円例えば持ってる力がないもんみなさんには例えて言うならば、そこで自分自身も(小?)ならと言うてもです。自分で打ち出せるだけの力を頂けと言うのですよここでは。ね。ですからみなさんがそれこそ求めて止まない言わばおかげでありましょうから、それには求めて止まないおかげを頂く為には、それが頂けれる力を、受けなければならない。
それにはね、ならここで私親先生と言い、私が死んだら涙の一つも本当にこぼさなければおられないほどしの人であるならばです。ね。本気で私の事をそのくらいに、
「はーおしい人じゃった」と私が死んだ後に思えれるほどしの人ならばです。
「はー生きてござる時に、習うときゃよかった」と言うほどしのものを持っておられるならばです。もう明日と言わずに今日只今からです。
そこん所のこつあいを覚えさせてもらい、そおれを行の上に現して試して見ておきなさいと言うのです。ね。末永さんが頂いた、私のそのお夢とは、まさしくその通りであろうと、「もう、お前三年間もここで修行するぞ」と。「どれだけ親先生のものを頂いておるか」と。ね。親先生が死んだらわんわん声を上げて泣く。それはもう夢の中に現れとるから、そのくらいなものは私に感じておるだろう。そんならね、その親先生が生きておる間にです。
一つ本気で、ね。一つ試験紙を持って、試しておかなければならない。
「なるほど先生が言う通りにすりゃ、なるほどこういうおかげが受けられる」と言う事実をです。自分のものにしておけと言うのである。私はそう言うおかげを頂いてです。 初めて「鬼に金棒」と言う事ではなかろうか。とこう思う。ね。そう言う試もせん、力も受けずして、ただお願いして、ただ神様が次々と繁盛のおうみかげを下さった。
金銭の上には何一つ不自由のないようなおかげを頂いておるけれども。
さぁ家で問題が起きた。起きたらもうその問題に、それこそ、右往左往しておると言う事実が、いやこれはまぁここではそう言うおかげを受けておる人がいくらもある。そういう程度の人が。ね。いわいる力を受けていなかったからなんですよ。ね。
神が本当にその、だけの持てる力を頂いていなかったから、他の問題になったらもうおろおろしておるのです。ね。みなさんはまぁだなら、思うようなおかげを受けていないと言う事が有難い。ね。だからおかげを頂く前にまず力を受けて、ね。その力に応じたおかげを受けさせてもらう、いうなら。『鬼に金棒』のおかげを頂いて初めて、ここにあるね。『人間は病気災難の時に神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ』ね。世のお役に立たせて下さいという祈りの基にです。
私どもが、為にはまず、「お役に立ちたい、お役に立ちたい」ばっかりだって、お役にどういう事によって、助かるか。ね。ただ金を少し持ってとるから、金を社会にえー社会奉仕のために使うとか、ね。ただいうなら、真薄き者がですよ。ね。少々金投げ出したからというて、世の中が清まるような事は言う事は絶対に無い。かえって濁るような場合がある。ね。真ある人が、使うならば、それは、ね。 例えば千円の金をつこうても(使っても)それが一万円にも十万円にも(匹敵?)するように生きてくる。ね。だからそう言う例えば助け方、使い方がでけるような、力を頂きゃなきゃならん。ね。
『先生すいませんけど百万円貸して下さい。」っち。私は例え一千万ここに現金が今あってもです。ね。決して私は貸しません。ね。それは、私がね。それではこの人が助からんという事をしっているからです。ところが、力がなくて、信心がなくて、沢山のお金を持っておる人に、「助けてください」もう聞くも哀れな話し。「これは一つ助けてやろうか」と言うて、百万円だした。それで私は助かるか。そういう助け方をですね。
人の難儀を助けるという風な思いかたしたら大間違い。信心を頂いて、いわいる。力と金と、言うならば『鬼に金棒』的な力を頂いてです。ね。的確に間違いなく、世のお役に立たせて頂くと言う生き方でならなければ、人の難儀が本当の意味において助かると言う事は、ありえないと言う事。ね。もう、ある宗教は非常にこの、(前訓?)を施すと言うかね、さぁ教会その~何て言うんですか、病院を建てたり養老院を建てたりしてしてですね。いわいる世界授業をしよるごたる。ところがもう、この宗教には、もう間違いなくに偽善者が非常に多いです。偽善かです。ですからねそこで決してその養老院やら病院やらで助かりよらんです。本当の意味においては。ね。
金やら物やらで助けてです。本当の助かりが出切るはずが無い。けれども、例えば言うなら、昨日(近親会?)で、お年よりの方達ばっかりが集まりました。その中で私が申し上げました。ね。「皆さんは段々年をとっていくにしたがって、肉体というものは弱ってくるんだ」と。ね。「それで若い者にね、いろんな事を頼まにゃならん。手足をいわいる若い時のようにいかん。すと若い者は言う事きかん。「ん~私が若かならあんたん為にはせんけれども」と言うて、「そう言う歯がいがり方ではいけません」っと。
「力がなくなってくれば、力がたくなってくるほどです。神様はもう、無力に近くなってくれば無力になってくるほど、本当言うたら、我無力と言うことが分かれば分かるほど、おかげを下さるんだ」と。「あんた達が肉体が段々段々おとろえてくる。百斤の物を持てよった者が、五十斤しか持てんようになってくるとね、神様が五十斤を抱えて下さるだけの力を与えてくださるんだ。そう言う、言わばあ~、御守護を下さるのが天地の親神様だと。例えば小さい小動物である。かえるなんかが、ね。黒い所に止まっていたら黒うなってしまう。青い所におったら青うなる。白い壁に止まっておったら白うなってしまうというように、あの、保護色です。ね。神様は力のない者には、力のない者にそれだけ、
保護の力と言うものを増してくださる。だから年をとっていくからと言うてけして、難儀する事はいらん。肉体が衰えてくれば、衰えてくるだけ、それにふさわしい力を神様が持って、あなたを保護してくださる、その保護を受けて初めて、ありがたい事だ、勿体無い事だと言えれる生活があるのだ』と。
『誰と飲まんでも、これと飲まんでもいいのだ』と。
『不平不足を言わんでもよいのだ』と言うようの事を私、話させて頂いた。
おばあさん達は昨日大変それこそ、喜ばれる。ね。そう言う私はその人の心の中にですね、その人が助かっていく生き方を、私は施してあげる事が、本当の意味で助かる事ではないでしょうか。
「あ~あんた金がなかなら金を貸してあげましょう」その金が、しまえる(終わる)間でしょうもんね。それでは本当の助けにはなりません。ね。けれども、今私が申しますような所を頂いて、そして後に、金であり、物であり、力を 貸してあげるということはこりゃまた別です。それはいよいよ人の難儀を助けるという事になりましょう。 そういう助け方がお出切る事をです。『有難いと心得て、信心せよ』とおっしゃる。
今日私が皆さんに申しましたような事を、心得て、それを自分のものにして行く事が、
ありがたいと心得て信心せよと言う事になる訳です。ね。どうぞ一つ人の難儀を見たら誰でも、おぅ助けなければおられんという心が起きてくる、人間である以上。ね。
これは信心のないものでも同じ。前半の所はそう言う意味です。後半の所の『人間は病気災難の時に神に助けてもらうから』とおっしゃておられる所は、もう信心する者の上に下さった御理解。ね。だから信心させて頂く者が、人の難儀を助ける、世のお役に立ちたいと言う事をです。本当の意味にお役に立たなければならない。本当にその人が助かる事の為に、おかげを頂かなきゃならない。それには私どもが真の力と、いわいる金、いわいる金だけじゃありませんけどね。いわいる金なら金、物なら物でもいいです。
いわいる『鬼に金棒』的なおかげを頂かなければ、人の難儀を助けると言う事はできません・・・・。 けんいち